HISTORY 長野ポンプヒストリー・消防車博物館
草創期
長野ポンプ株式会社の生立ち(草創期)
長野ポンプ株式会社は、初代長野三郎(明治36年~昭和37年・1903~1962)が、当時の尋常小学校を卒業の後、大正5年(1916)能瀬喞ポンプ筒製作所に入所(写真右から二人目が本人)奉公年季明け後、大阪の㈱森田ガソリン喞筒製作所(現㈱モリタ)に入社、昭和4年金沢市尾張町に長野商店を開設し㈱森田ガソリン喞筒製作所製消防ポンプの販売を始めた。
当時の能瀬喞筒製作所は、金沢駅近くの金沢市木の新保町(現在の本町リファーレ近く)にあり蒸気ポンプや腕用ポンプを製造販売していた。当時の金沢は市内のインフラ整備が盛んに行われており、動力電気がようやく小さな町工場にも入り、それまでは手回しで回していた旋盤の動力源として、モーターが使用されるようになっていた。また金沢電気軌道株式会社(後の北陸鉄道株式会社)による路面電車の運行も大正8年(1919年)から始まった。なお能瀬喞筒製作所がいつ頃廃業に至ったかは不明である。
明治36年 (1903) |
創業者 長野三郎、東長江村(現金沢市東長江町)で生を受ける。 |
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大正5年 (1916) |
長野三郎、金沢市木の新保町(現本町)能瀬喞筒製作所に入所、消防業界への第一歩を踏み出す。 |
大正8年 (1919) |
金沢市電気軌道株式会社(現北陸鉄道㈱)による市電開通。
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大正 年代不明 |
長野三郎、株式会社森田ガソリン喞筒製作所(現㈱モリタ)入社。 |
昭和2年 (1927) |
昭和恐慌が起る。 |
昭和4年 (1929) |
金沢市尾張町に長野商店を開設、株式会社森田ガソリン喞筒製作所製消防ポンプの販売を始める。
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初期
長野ポンプ株式会社誕生
昭和9年(1934)長野商店として独立、同時に金沢市彦三町(現彦三1-15-14)に長野自動車ポンプ製作所を設立し、消防ポンプ自動車製造販売の第一歩を踏み出した。
12月8日真珠湾にて太平洋戦争開戦。戦火が進むにつれ戦況は不利となり、大都市は連合国軍のB29爆撃機の襲来を受け大きな被害が出るようになった。主要都市を戦火から守るため、地方都市から消防車が供出され石川県からも何台かの消防車が名古屋市などに供出された。また昭和17年に戦時非常時に備えるため、金沢市からポンプ 付救急車を受注し製造した。このポンプ付救急車はその後昭和35年に専用救急車が配備されるまで第一線で活躍した。
昭和20年8月15日太平洋戦争終戦。昭和23年、消防ポンプの規格を統一のため国により動力消防ポンプの技術上の規格が施行された。
昭和24年艤装工場を金沢市岩根町(現瓢箪町25-33)に移転、併せて旋盤機械工場を(現瓢箪町24-14)設けてポンプの機械加工を自社にて行なうようになった。当時は現在のような、消防車専用のシャシーがあったわけではなく、中古車(主に米国フォード社製、ゼネラルモータース社製など)を入手しエンジン、シャシーをすべて分解整備して消防車をつくり続けた。
こうして分解整備したエンジンに国産の点火プラグ、点火コイルを装備して放水テストを行なうと20分~30分足らずでエンジンが不調になり性能が発揮できず、やむなく高価ではあったが、フォード社製などの純正点火プラグ、点火コイルを装備して放水テストを行なうと問題なく性能を発揮し、彼我の技術力の差と製品の優秀性を認識させられた。また車のフロントフェンダー、ボンネット等を当時のアメリカ車に似せて手づくりで作ることにもチャレンジし、色々な形のオリジナル消防車をつくり出し好評を得た。
さらに当時物資輸送手段の一翼を担っていた、三輪トラックのシャシー(マツダ号・大発号・ジャイアント号・くろがね号等)をベースに後部にエンジンとポンプをセットして積載した積載型消防車を製作したのもこの頃であり、同じく手づくりの台車にエンジンとポンプをセットした、手曳きガソリンポンプも当時数多くつくられた。
昭和25年から昭和27年の3年間にわたって勃発した朝鮮戦争により国内は特需景気に沸いた(直接特需で10億ドル、間接特需で36億ドルと言われ、当時の為替レートは360円)同時にこの時にアメリカから色々な技術や大量生産システムが導入された。消防車でも米軍の四輪駆動消防車に使用されていたボール式放水コックは、当時国内で使われていた擦り合わせ式の放水コックからの水漏れや、圧力が高くなると開閉が困難になる現象に悩まされていた国内ポンプメーカーには、まさに画期的な製品であり、これを見本に国産化され、本格的に普及したのは昭和32年頃からであった。
昭和9年 (1934) |
長野商店として独立、同時に金沢市彦三町に長野ポンプ製作所を開設し消防ポンプの製造を開始。
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昭和16年 (1941) |
12月8日、真珠湾にて太平洋戦争開戦 |
昭和17年 (1942) |
主要都市を戦火から守るため、地方都市から消防車が供出され石川県内からも何台かの消防車が供出された。
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昭和20年 (1945) |
8月15日、太平洋戦争終戦 |
昭和23年 (1948) |
国により動力消防ポンプの技術上の規格が制定された。 |
昭和24年 (1949) |
金沢市岩根町(現瓢箪町25-33)に艤装工場を移転、同時に旋盤加工工場を(現瓢箪町24-14)に開設。
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昭和25年 (1950) |
朝鮮戦争勃発この戦争による特需景気により(直接需要10億ドル、間接需要36億ドルと言われた《1ドル360円》)停滞していた景気が回復した。この時米軍の消防ポンプ自動車に使われていた、ボール式放水口コックは、高圧時でも開閉がスムースで水漏れのない画期的な製品であった。 |
昭和27年 (1952) |
朝鮮戦争終結 |
成長期
長野ポンプ株式会社
昭和28年トヨタ自動車及び日産自動車から発売された四輪駆動ジープ型シャシーをベースに普通消防車を製作し金沢市消防本部に納車した。四輪駆動であったため積雪時の機動性が良く好評であった。
昭和28年度から消防施設等の整備に対して国庫補助制度がスタート。国家消防本部消防研究所による動力消防ポンプ技術上の規格に基づく消防車の国家検定が開始された。
昭和29年長野ポンプ商会に商号変更。昭和31年金沢市内で増加傾向にあった3階以上の建築物に対処するため、金沢市消防本部が使用していた水槽付ポンプ車を改造し10mのアルミ梯子を積載した簡易はしご車を製作し納車した。
100㎜の吸水管を結合して吸水する時の結合トラブルによる放水不能が発生したため結合箇所を少なくするため100㎜×5m吸水管を二つ曲げに積載し結合箇所の軽減を図った車輌を開発。
昭和33年、型式番号189号で型式認定を取得し国家検定合格消防車の製造販売を開始した。
消防ポンプ自動車の検定制度は、消防車の性能向上、耐久性向上に飛躍的に貢献したが、一方では検定に合格できずに廃業したメーカーもあった。
昭和34年、株式会社長野ポンプ製作所に商号変更。
75㎜ソフト吸水管が普及期に入り、75㎜×8m~10m吸水管をボティー後部左右に積載することにより吸水管の結合作業が不要となり、消防隊員の現場負担が軽減された。
昭和37年12月創業者 長野三郎死去、長野幸雄が社長に就任した。
同年7月金沢市横安江町の真宗大谷派金沢東別院から出火し、木造本堂その他6800㎡と付近の民家を焼失する大火となった。
昭和37年末から38年年初にかけて降り出した雪は三八豪雪と呼ばれる大雪になり、1月23日には51㎝の積雪となり1月22日から27日の6日間で310㎝に達し、特に1月27日は1日で181㎝を記録し観測史上最高の積雪となった。
昭和39年(1964)創業30周年、同年本社及び工場を金沢市浅野本町ロ145番地に移転新築した。
昭和28年 (1953) |
トヨタ自動車及び日産自動車から発売された、四輪駆動ジープ型シャシーをベースに普通消防車を製作し金沢市消防本部に納車した。
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昭和29年 (1954) |
長野ポンプ商会に商号変更。 |
昭和31年 (1956) |
金沢市消防本部所有の水槽車を改装し10mのアルミ梯子を積載した簡易はしご車を製作納車した。
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昭和32年 (1957) |
吸水管の結合トラブルによる、吸水不能を解消するため、100㎜×5mのソフト吸水管を二つ曲げに積載し、結合操作箇所の軽減を図った車輌を開発。
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昭和33年 (1958) |
型式NP-2型ポンプが認証番号第189号で国家検定に合格、国家検定合格消防車の製造販売を開始。 消防専用シャシーが発売され、消防ポンプ自動車の性能と品質は一段と向上した。 |
昭和34年 (1959) |
株式会社 長野ポンプ製作所に商号変更。
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昭和37年 (1962) |
創業者 長野 三郎死去、長野 幸雄が社長に就任。 7月24日金沢市横安江町の真宗大谷派金沢東別院が焼失。 |
昭和38年 (1963) |
三八豪雪が発生、最大積雪量は310㎝に達した。 |
昭和39年 (1964) |
創業30周年、本社及び工場を金沢市浅野本町ロ145番地に移転新築、艤装工場、消防ポンプ検定試験場及びポンプ鋳物工場を設置し一貫生産体制を確立した。 |
成長期2タイトル(仮)
昭和41年長野ポンプ株式会社に商号変更。
昭和42年真空ポンプ駆動用クラッチのトラブルを解消するため電磁式クラッチの開発に着手した。
検定制度の普及と、車輌メーカーによる、消防専用シャシーの開発により品質の安定した消防車が供給できるようになったが、真空ポンプ駆動用クラッチの信頼性には今ひとつ問題があり揚水不能トラブルの原因となっていた。消防車は自然水利から吸水するとき、真空ポンプを作動させポンプ及び吸水管内の空気を排出して揚水し、揚水完了とともに真空ポンプを自動停止させる構造となっている。当時この動作をコーンクラッチ(円錐形の摩擦錐を着脱する方法)にて行っていたが、たびたび滑りが発生し揚水不能になる事案が頻繁に発生した。そこで当時乗用車に普及し始めたカークーラーの電磁式クラッチに着目し、この電磁式クラッチを真空ポンプの駆動クラッチに転用することに心血を注ぎ、昭和43年ようやく実用化にこぎつけることが出来た。このことは消防ポンプ自動車の安定運用に大きく貢献し、当社では普及促進を図るため特許申請を行なわず、広く技術を公開したことにより今では国内で製造されるすべての消防車に採用されている。
昭和44年当時の消防車は運転者と指揮者は着座して乗車していたが、その他の隊員は車輌のサイドステップまたはリヤステップに乗車して出動するのが通常で、隊員の安全性は極めて悪かった。そこで石川県消防学校の依頼を受け、トヨタランドクルーザーをベースに、ダブルシート型消防車を開発し納車した。このことで火災出動中の隊員は全員着座可能となり、隊員の安全性は各段に向上し、以後のダブルキャブ付きBDI型に進化し普通型消防車輌の主流となった。
昭和53年にエンジン性能向上にマッチングさせるため、新ポンプNF53型A-2級2段バランスタービンポンプを開発、又車輌艤装においては鉄板屋根付車輌を開発、布製ドアーを取付けることにより、車輌暖房の取付けも可能となり、冬季間の隊員の出動環境が向上した。
昭和54年75㎜吸水管でA-1性能を発揮するインデューサー付き、NF75型2段バランスタービンポンプを開発した。このA-1級ポンプは、昭和56年に社団法人日本損害保険協会が地方自治体に寄贈事業として行っていた車輌に採用され、平成15年本事業が終了するまでの22年間に延べ81台の車輌が各地の消防本部に納車され好評を得た。
昭和54年ウインチ及びクレーンを装備したドアー式救助工作車を開発。
昭和55年アルミシャッター式救助工作車を開発した、アルミシャッター式は、シャッターの開放により積載救助器具の配置が一目で確認でき、その後の救助工作車の主流となりアルミシャッタ-も車輌専用の手動式、電動式が完成した。
昭和55年本社及び工場に面した県道拡張に伴い、本社社屋の建替え新築と併せて水量50トンの水槽を備えた消防車試験場を新築した。
昭和56年消防隊員の更なる安全を図るため鉄板4ドアー付BD-I型を完成、エアコンも装備され隊員の出動環境は更に向上した。
昭和41年 (1966) |
長野ポンプ株式会社に商号変更。 |
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昭和42年 (1967) |
電磁式真空ポンプ駆動クラッチの開発に着手。
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昭和43年 (1968) |
電磁式真空ポンプ駆動クラッチの開発に成功し、動第189-8号にて型式承認を取得、特許を取得することなく技術を公開。
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昭和44年 (1969) |
ダブルシート型5名着座型消防車を石川県消防学校に納車、消防隊員の安全性は格段に向上した。
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昭和48年 (1973) |
4トンダブルキャブ付シャシーが発売され、普通消防ポンプ自動車の艤装を施し金沢市消防本部に納車。 |
昭和53年 (1978) |
エンジン性能の向上にマッチングさせるため、NF53型A-2級ポンプを開発、動第53-7号にて型式承認を取得。
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昭和54年 (1979) |
NF75型A-1級ポンプを開発、動第54-4号にて型式承認を取得、75㎜吸水管でA-1級性能を可能にした。
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昭和55年 (1980) |
ウインチ及びクレーンを装備した、アルミシャッター式救助工作車を開発。
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昭和56年 (1981) |
社団法人 日本損害保険協会が、地方自治体に消防車輌を寄贈する事業に、75㎜吸水管NF75型A-1級が採用され、延べ81台の長野式A-1級消防車が各地の消防本部に納車された。
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成長期3タイトル(仮)
昭和59年(1984)創業50周年を迎える。
真空ポンプの排出油による環境の汚染をなくするため、真空ポンプ排出油受け装置を全車に標準装備し、その後更に改良を重ね、気水分離装置付き真空ポンプオイル循環装置を完成させた。このことにより真空ポンプ潤滑オイルの管理不良による、真空ポンプの焼付き揚水不能の発生を防止し、同時に真空ポンプオイルタンクに水が混入するのを防止した。この気水分離装置は当社の無給油式真空ポンプにも採用され、真空ポンプ内への汚水の流入を防止し真空ポンプを保護している。
平成5年(1993)創業60周年を迎える。同年車輌の大型化等に対処するため高柳町に高柳工場の建設に着手し平成6年3月に完成した。
消防車の高性能化と共に省力化も進み、三連梯子の積み降ろし、吸水管の操作などを一人で行なう必要が生じ、これに対処するため手動式梯子昇降装置、手動式及び電動式吸水管巻取り装置など、省力化に貢献する各種の装置、機材を引き続き開発投入した。
平成14年(2002)長野幸雄が代表取締役会長に就任、長野幸浩が代表取締役社長に就任した。
消防ポンプ車操法において放水側に残留する空気溜りを排除するため、NRVS装置を開発した。これにより放水口開放時に、瞬時に低下する圧力を一定にし、操法の時間短縮を実現した。
加納式ホースカーの電動化を図りNGN02K型加納式電動ホースレイヤーを発売した。
平成16年吸水管の一人操作を可能にしたサイドプル式吸水管巻取り装置を開発。更に左右両方向に引出し可能なダブルサイドプル式も投入した。
平成22年(2010)長野幸雄 取締役相談役に就任。
国内消防車輌の大半を占めるCD-I型消防車に700L程度の水槽を積載する車輌が増えてきたがユーザーからは更に水量の大きな水槽の要望があり、このためには艤装の軽量化が必要となり平成23年にドイツ ツィグラー社と技術提携を結び、平成25年国内初のアルミボディ消防車を完成させた。 平成25年消防車の更なる軽量化を図るため、アルミ製2段バランスタービンポンプNF213Aを開発型式承認を取得した。
平成26年ガラス繊維強化樹脂(GFRP)製水槽を積載した水槽車を開発、同時にアルミ製加納式電動ホースカーNGN25Aを開発した。これにより水槽、ホースカーが軽量になり取回しが向上し、合せて車輌の荷重バランスが向上した。
昭和59年 (1984) |
創業50周年を迎える。 |
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昭和60年 (1985) |
真空ポンプ排出油による環境の汚染を防止するため、真空ポンプ排出油受け装置を開発、当社消防車に標準装備とした。 |
平成4年 (1992) |
気水分離装置付真空ポンプオイル循環装置を開発、オイルの管理不良による真空ポンプの焼付を防止した。 |
平成5年 (1993) |
受注台数の増加、車輌の大型化に対処するため、金沢市高柳町に高柳工場建設に着手し平成6年3月に落成した。 |
平成6年 (1994) |
気水分離装置付無給油式真空ポンプを採用、無給油式とすることで真空ポンプ潤滑オイルの管理は不要となった。 |
平成8年 (1996) |
手動油圧ダンパー式三連梯子積載昇降装置を開発。 |
平成11年 (1999) |
車種統合により、BD-I型シャシーは生産中止となり、2トンダブルキャブオーバー型(CD-I型) が主流となった。 |
平成14年 (2002) |
長野 幸雄 代表取締役会長に就任。
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平成16年 (2004) |
サイドプル式及びダブルサドプル式吸水管巻取り装置を開発。 |
平成22年 (2010) |
長野 幸雄 取締役相談役に就任。 |
平成23年 (2011) |
消防車輌の軽量化を進めるため、ドイツ・ツィグラー社と技術提携。 |
平成25年 (2013) |
日本で初めてアルミボディ消防車を開発。
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平成26年 (2014) |
GFRP(ガラス繊維強化樹脂)製水槽を積載した水槽車を開発。アルミ製加納式電動ホースカーNGN25A型を開発発売。
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平成27年 (2015) |
GFRPボディ消防車を日本で初めて開発。 |
平成28年 (2016) |
3000LGFRP水槽付アルミボディ消防車開発。 |
平成29年 (2017) |
5000LGFRP水槽付アルミボディ消防車開発。 |
平成30年 (2018) |
1500L水槽一体型GFRPボディ消防車開発。 |
平成31年 (2019) |
アルミボディバスタイプ救助工作車開発 |